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★津軽三味線★加藤流三絃道「訓音会」公式ブログ 「加藤訓音」誕生秘話!
これまでにお名前をあげられなかったが、本当に沢山の方々に「ご恩」を受け(それはまた別の機会に!)…、そのお蔭様で何とか日々を三味線に生きることができるようになった加藤訓音。

しかし、いまだ一番大切なものを修得してはいなかった。それは真の意味で「無」になること。

自分の道を日々ぎりぎりに探す内、知らず知らずに自分の価値観の中にとらわれるようになっていた。そして、いつの間にか仕事も人間関係も抱えきれなくなり、胃潰瘍や胃けいれんを繰り返すようになった。

その時、
とことん私を見捨てず、
とことん忍耐強く、
とことんそのことを伝え続けて下さったのが、他でもない、師匠である御家元であった。

こんな私に、付き合い続けてくれた兄弟弟子、そしてついてきてくれたお弟子さん方、いつも味方になってくれた先輩・友人。

三年間ももがいたろうか…、御家元のお言葉が、ある日ストンと臓腑におちた。

心からの感謝・思いやり…それらは全て「無」になることから。
何より「加藤訓音」とは私であって私でない。師匠の名前を頂くとは、どれだけの責任を背負っていることか。

外に於いては加藤流の名に恥じぬよう
内にあってはその他の手本となるように
師に対しては志を同じくする
そうすることで自らの技と心を磨くこと。

それこそが「加藤訓音」の意味。
それができなくて、それ以上の何ができる訳もない。
それを得た時、初めて「加藤訓音」の可能性が無限にひろがった。

‐REBIRTH‐スタートラインに立つ。


ライブハウスでの演奏と平行して、有り難いことにイベント出演やアトラクションとしての演奏依頼なども頂くようになった加藤訓音。

そこには、その3で出入りするようになった今池のミュージックパブでの、大きな出会いがあった。

そのお店を経営されていたのは、猪狩久四郎さんとおっしゃる方で、戦中戦後からバンドマンとしてたたきあげで活躍されてきた。ピアノもドラムも和太鼓も演奏され、いつでも笑顔で、人々を音楽と愛でつなぐ、本当に素晴らしい方だった。音楽人やお客様の人脈も半端でなく、沢山のご縁を頂いたものだ。

そのお店を手伝いながら音楽を勉強していたのが、石原奈緒美さん。彼女はもともとピアノを勉強しながら、ロックバンドでドラムも叩いていた。偶然にも同い年。

猪狩さんの元で、彼女の和太鼓と私の津軽三味線を合わせるようになる。その頃はまだ自分の津軽三味線というものを持っておらず、ただただ習った手ばかりを弾いていた。
しかし、彼女の和太鼓と合わせると、ソロではまだまだ聞けたものではない私の演奏が、何とそれなりに聞こえるではないか。尚且つ一緒に演奏する中でお互いの呼吸を交わす楽しさ、そして高まるグルーブは他では体験したことのないものだった!!

猪突猛進型で気も合い(笑)、以後、彼女と活動を共にすることとなる。そして、数限りない現場を彼女と歩く。

この出会いがなければ、私は津軽三味線の醍醐味であるソロ弾きを、実践で学ぶ機会を得なかっただろう。
今考えれば、全く技術が伴わないのに空恐ろしいばかりだが、現場で学ばせて頂いた私はこの上ない幸せ者に違いなかった。

出会いに「感謝」ばかりである。

つづく
高校時代、芸に生きたいと正式に師匠に内弟子入りを希望したが、その頃父が肝臓癌におかされ、いつ亡くなってもおかしくない状況であった為、見送りに。
また、高校卒業後も、早く働いて母を安心させるべく、短大を経て商社のOLとなった。
結局は、芸に生きたいと言いつつ、自分にふんぎりがつかなかったのだと思う。

OLをしながら三味線を弾き続けたある日、従姉妹からライブハウスで民謡を歌う話があるから手伝ってくれないかとの話。三味線ではなく、お囃子でのことだったが、勉強になりそうだと引き受けた。リハーサルには今池のミュージックパブ(それが現在の津軽三味線 訓音会 名古屋市今池教室)。
ライブハウスは今池のパラダイスカフェ(現在はパラダイスカフェ21)。ライブハウス自体初めてだったが、お客様との間合い・雰囲気…、全て独特のもの。しかし、あのグルーブ!楽しかった!!

それから、その時のメンバーに誘われてライブハウスで定期的にライブを行うようになる。MC(マスターオブセレモニー:司会進行)やお客様との間合いは、このライブハウス時代に鍛えられた。

お客様と一つになる舞台の快感!津軽三味線という音楽を通して、自分の感覚が周囲に伝播していく喜び。
私の津軽三味線が内なるものだけでなく、外にむけても認識を始めた。
津軽三味線に興味を持ち、自分から進んでお稽古するようになった私だったが、それはあくまで「習い事」の範疇だった。

それが津軽三味線で身を立てたいと思うようになったのは、高校生の頃。御家元の秋田のお宅で一ヶ月間お世話になってからのことだ。

その一ヶ月は人生を変えた一ヶ月。
名古屋のお稽古場では決して見ることのできない、師匠の生(なま)の芸人としての生き様に触れた。

プロとして芸に生きる者の自らへの厳しさ、それゆえの誇り、思いやり、意地!
とことん飲んじゃう気持ちのよい潔さ…。

一ヶ月が経ち名古屋へ帰る頃には、私は全く別人のように自覚的に生きることを覚えていた。

「私もこんなふうに、ひたすらに、一つの道に打ち込みたい!この世界で生きていきたい!」と。

つづく
なぜ津軽三味線を始めたか。

それは母の影響だ。最初は民謡三味線を習っていた母。姉に兄にうるさいと言われ続けても練習に余念のない母。母に誘われ民謡三味線を習い始めた私も、いつもなら同様にうるさいなあと思うはずだった、その日までは。

今でもその瞬間を鮮明に覚えている。幼い私には表現するのが難しい程、胸がかきむしられるような高揚感。今ならわかる、それが「じゃわめく」(津軽の言葉で、血が騒ぐというような意味)ということだ。

そして扉を開けた、
「お母さん、その曲なんて曲!?」
「『津軽じょんから節』」
「かっこいいね!」。
「‐お前も弾きたい?」
「うん、弾きたい!!」

母は津軽三味線を始めていたのだった。それをきっかけに、母と同じく、加藤流三絃道 家元・藤秋会 会主の加藤訓先生に師事したのが中学生の頃。
思えばこれが「加藤訓音」への第一歩だった。

つづく